思い出の使い方

ボケモン(呆けっとモンスター)進化中の老親と暮らしていると、振り回される感は常にあります。8時半の時点では「今日は○○さん(=かかりつけの内科)に行く日。午後に行く。」と言って運転・付き添いを頼んだくせに、10時半に身支度をしてやってきて「じゃあ、頼むね」と。医院には予約しているわけじゃないので、何時に行ってもいいんですけど。「午後じゃなかった?」なんて言えば怒り出すだけなので、はいはいと。「ヤツらは自分勝手」と肝に銘じておくんです。そうすれば、少しはストレスを軽減できます。老化すると、本当に、自分の都合でしか行動できなくなるみたい。医者に行くのを忘れないだけでもいいと思わなければ。

で、進化中なので、やっぱり、同じことを何回も言います。
母の場合、過去に嫌な思いをしたことを思い出しては愚痴ります。
人間、いいことだけを覚えておけば、いい人生だったと思い込んで死ねるのになあと気の毒になります。
「自分の一生」という袋に、いい思い出だけを詰め込んでおくのです。
自分の人生の全貌なんて、どうせ自分にしかわからないんだから、いいことだけで満たしておけば、いい一生になるのでは。

さっき、母の愚痴を聞いていてふと思ったのは
その嫌な思い出を繰り返し思い出すのは、そこから何かを学ぶべきだってことなんじゃないか、ということです。
母は、何十年も前、耳鼻科で「耳垢がたまっている。5年分もあるんじゃないか?」と叱られたんだそうです。
「湿った耳垢なんだから、とりにくくて押しこんじゃうんだよ。だから奥にたまるんだ。とり方を優しく教えてくれればよかったのに。叱らないで教えてくれればいいじゃないか。あれから二度とあの耳鼻科には行ってないよ」と愚痴るわけです。
でも、その耳鼻科の先生がなさったという、相手のちょっとした不備を指摘して馬鹿にする、というやり方は、母のいつもの叱り方そのものです。
その「なじり」癖のために、家族はずいぶん傷つけられてきました。
耳鼻科の経験から、母が、人間というのは、こういう言い方をされたら嫌なんだ、傷つくんだ、ということを学んで、自分が人にものを言うときの常の戒めにすることをしてきていれば、たぶん、この「耳鼻科で叱られた経験」は克服できたんだと思います。少なくとも、そのひどい言い方をした人よりは、その言い方をしないよう気を付けている自分は、人間的に向上していると感じられるはずですから、プライドの高い母も満足できると思います。

その耳鼻科の先生の言葉が「なじり」に聞こえたこと自体が、母へのメッセージかもしれません。
文字にして読んでみると「叱り」とは断定できない言い方です。
「たまっている」という事実と「5年分かも」という推測を述べているにすぎません。
それに罵倒や愚弄を感じるのは、聞く側の問題ではないでしょうか。

それに気づかせたい何ものかが、その記憶を蘇らせる。
母が気づいて自分の悪癖を直すまで。

気づくことができない人です。
そんなふうに修行が足りないから、この人は、まだまだ生かされていくんでしょう。
あれがつらい、ここが嫌だ、と、つらく感じる時間を、まだ何年も続けるんでしょう。
ああ、気の毒。

記憶には、よい思い出だけ残す。
悪い思い出は、そこから何を学べるかを考える。

「記憶」は、将来の危機を回避するために蓄積されている情報だと思います。蓄積された記憶の中から、問題解決のヒントになる情報を探して、危機回避の道を見出すのです。
「嫌な思い出」も、有用な情報として生かすことができれば、苦しみは軽くなる、そんな気がしてきました。




私にとって、二男が自死したことはどうしようもなく嫌な出来事です。
生きている限り、私から離れはしないでしょう。
繰り返し、繰り返し、思います。「なぜ?」と。

生物として、必要なんでしょう。それを問う作業が。

繰り返さないためにです。
自分のほかの家族に。
そして、すべての人々に。
自死という悲しい出来事が二度と起きないために、
原因を探り、方策を立てる。

そのために、私は、問い続けていくのだと思います。




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