稲盛和夫「生き方」を読みました

老母が連れて行けというので本屋に行ったら、平積みされていました。母は「これ、話題になってるんだよね」と言いながら買わなかったのですが、私は興味をもったので、後でセブンネットで注文しました。

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                 サンマーク出版 2004年

届いた本は、奥付に2013年6月1日第八十八刷とあります。ずいぶん版を重ねているんですねー。
片田舎の書店で平積みされているわけです。

内容は、丹波哲郎さん、美輪さん、江原さんがおっしゃっているのと重なる部分が多いなあと思いました。「魂を磨いていくことが、この世を生きる意味」。そのとおりです。
「足るを知る」「世のため人のために尽くす」。そういう生き方が提唱されています。

みんな、同じところに行きつくんですね。
仏法の真理に到達するための「方便」はいろいろあるというたとえで
よく「山」が引き合いに出されますが。
(山の頂上に真理があるとして、麓から頂上へ至る道=「方便」は無限にあるということです)
人間として大事なことを考えると、同じところに行きつく。
そんな感じがしました。

地球上で人類が幸福に生きるには共存が必要だから、
共存のため、みんながちょっとずつ謙虚になって、他人のことに目配りできるといい。
肉体を維持して暮らしていくのは大変で、つらくなるけれど
それは「修行」だと思えばいい。
自分がつらければ他人のつらさもわかるはずだから
助けあって、感謝しながら生きていけばいい。
自然は災いももたらすけれど恵みもくれる。その恵みのありがたさにも気づくといい。

そういうことですよね。

現代の日本では、宗教的な規範意識は現実社会と相いれないイメージがありますが、稲盛さんのこの本は、
それを、現実社会を渡っていく知恵と結びつけている点がすごいですね。実業の世界で成功された稲盛さんの言葉だから説得力があるのでしょう。

こういう本が売れているのは喜ぶべきことですね。

ただ
1点だけ、「心が呼ばないものは近づいてこない」「因果応報の法則」とあるところだけ、読むときに気を付けたほうがいいと思いました。

被災された方や、大切な人を不慮の死で亡くされた方には、厳しく響くかもしれないからです。被災は断じて、「応報」ではありません。受けた人の行いや、心の持ち方が引き寄せたのでは、決して、ありません。それは、ただ、理不尽な不幸です。乗り越えるべき試練にはなるのかもしれませんが、過去の悪心の結果ではない。過去の悪心の結果だと証明できるものなど一つもないのです。

世は無常です。
すべて粒粒で、その離合集散によって現象が生成し霧散していきます。そこには「因」と「果」の関係はありますが、一つの因がどんな果になっていくかは人のはからいの外です。粒粒の種類は多く、寄り集まるときの組み合わせ方は無限で、たまたまそうなりながら推移するという状況だからです。「不定と心得ぬるのみ、まことにてたがわず」(兼好法師)です。

著者は、ご自身が病を得た体験を述べたくだりで、自戒をこめて言っただけです。悪念は悪果を呼ぶ、だから、悪念や悪心を抱くまい、とおっしゃりたいのです。
それはわかっていても、水害被災経験者として、また鬱病自死遺族として読むと、「心が呼ばないものは近づいてこない」「因果応報の法則」といった言葉が、独り歩きして心を刺してきます。ほかの方がここを読んで、責められていると感じて苦しむことがないように、切に切に祈ります。

悪念は悪果を呼ぶ。でも、逆は真ならずです。世の中、悪念など微塵もない人でも、被災してしまうことはあるんです。なぜかと言われても「たまたま」としかいいようがありません。物質レベルの「因」はいくらでも探れるだろうけれど、過去の精神世界に「因」を探っても立証するすべがないわけですから無意味です。


こんなにいい本なんですから、校正のときに
不測の不幸に傷ついている被災者や、
災害・病気・事故・事件等々の遺族の心情に、
誰か気づいて配慮すべきでしたね。




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