仏には人がなる 徒然草にも

徒然草第243段。最終段です。

八つになりし年、父に問ひていはく、「仏は如何なる物にか候ふらん」といふ。
父がいはく、「仏には人のなりたるなり」と。
また問ふ、「人は何として仏にはなり候ふやらん」と。
父また、「仏の教えによりてなるなり」と答ふ。
また問ふ、「教へ候ひける仏をば、なにが教へ候ひける」と。
また答ふ、「それもまた、さきの仏の教へによりてなり給ふなり」と。
  (橘純一校註 日本古典全書「徒然草」より)


親鸞聖人が書かれたという「正信偈」の
初めのところと重なります。

 法蔵菩薩因位時 ほうぞうぼさいんにんじ
 在世自在王仏所 ざいせじざいおうぶっしょ
 覩見諸仏浄土因 とけんしょぶじょうどいん
 国土人天之善悪 こくどにんでんしぜんまく
 建立殊勝無上願 こんりゅうむじょうしゅしょうがん
 超発稀有大誓願 ちょうほっけうだいぐぜい

   (阿弥陀仏は)法蔵菩薩だったとき
   世自在王仏のところで学び
   もろもろの仏の浄土のありかたや
   さまざまな国土に生きる人々の善悪をよく見て
   (一切衆生を救おうという)無上の願を立て
   あらゆる困難を超えて誓った

阿弥陀仏にも、世自在王仏という「師」があったわけです。
阿弥陀如来になられる前は法蔵菩薩。
法蔵菩薩は、一国の王だった人だそうです。

阿弥陀仏にも「師」があり、
その師にもまた師があったということにも
私は感銘を覚えてしまうのですが
ここで注目したいのは
阿弥陀仏も「人」であったということです。

それを、今の多くのお坊様方はとりあげようとしません。
  ↓
浄土真宗なのに
お釈迦様は歴史上の人物だから「人」であるとし、
お釈迦様の言葉や行いは教えるのに、
「阿弥陀仏」は「はからい」や「はたらき」だとして
阿弥陀仏に人格をあてはめようとしません。
だから、阿弥陀仏が「一切衆生を救う」という誓いの言葉を発したことを
教えてくれようとなさいません。
それがなぜだかは、私にはわかりません。
「尊い」ものに人格をあてはめるのは恐れ多いからなんでしょうか。
あるいは、
「仏」とか、「浄土」とかは、
科学思想が常識となっている現代では
ファンタジーの領域になってしまうので、
「非合理」「虚構」と揶揄される、馬鹿にされる、
それを恐れているからなんでしょうか。

おそらく、仏教系のお勉強をなさる際、
教えられるのでしょう、
「仏」とは、人智を超えたもの、はかりしれないものだと。
だから、それについて深く考えてはいけない、
人間のさかしらで理解しようとすべきものではない、
そう、刷り込まれてしまうのでしょう。

他の如来と同様に阿弥陀仏もブラフマンに同化させようと
いうわけなんでしょう。

ブラフマンを感得し、そこに自らを乗っければ、
心の平穏は得られます。
自分の心の平穏は。
多くの仏教が目指すのはその境地です。
でも、阿弥陀仏はそこにとどまっていない。
阿弥陀仏は、「自分」だけでなく「他者」も救うことが
よいことだと思われた。そこが、阿弥陀仏の「発明」です。


「仏」を「はかりしれないもの」として、
「人」とは別のものとみなせば
人間界のモラルとの接点を放棄することになってしまうのではないでしょうか。


人が、仏になるんです。
兼好法師のお父さんがおっしゃったとおりです。

人と仏との間に線なんか引けません。
同じ線上にあるんです。

「仏」を、「仏のような人」と考えてみればいいでしょう。
「仏心」をもてば、その人は「仏」です。
「仏心」とは、慈悲心です。
慈悲心のある人は、「仏」です。

今よりもっと多くの人が「仏心」を持つことを目指せば
それだけで世の中はよくなっていくでしょう。

人が、仏になるんです。
人は、仏になれるんです。
現身のままで、です。

仏や浄土を、別世界のもの、ファンタジー、としてしまえば
客観思想万能の今の時代では「うそつき」と言われてしまうでしょう。
でも「仏」も「浄土」も「地獄」も「鬼」も
「比喩」だととらえてみてください。

仏のような人/浄土のような世界/地獄のような場所/鬼のような輩……

いろいろなことが、
腑に落ちると思いますよ。

慈悲心とは、
深い憐みの心です。
寛容性を基調にした悲しみと慈しみ。
絶えず他者へと繰り出される、いたわりの思い。

(そこから「自分が救う」という阿弥陀仏的行動に出たとき
そのとき「仏」に、なっているんです。
「地獄に仏」のたとえのとおり。)


私利私欲にばかり縛られず
ときどき、なれるときだけでいいから
仏のような人になろう、と
今よりもっと多くの人が思うようになれば
世界は少しずつ平和になっていくでしょう。

よい心を持つ人になる。
それを今の生の目的にすれば
生きていたっていいことがないとか、
人生には意味がないとか
自分は生きる価値のない人間だとか
どんよりとした思いの沼に沈んでいかずに
すむのではないでしょうか。

自分だけを見ず、他者に、外界に目を開き、
目に映る世界が少しでもよくなっていくように
何かする。


「命」を、人格を高めることにいそしむ時間だと
とらえると、試練もさほど苦にならなくなっていくんだと思います。

たとえ「死」は「無」で、
死んだら人格も何も消えるんだとしても
生きている間、よいものに近づこうといそしんでさえいれば
人生を、充実した瞬間瞬間の集積にできます。
死ぬとき、充実感を持てるなら、
それは幸せな人生だったといえるのではないでしょうか。

――などと、また、うつ病で死んでしまった二男に
言い聞かせるように書いています。

もう二度と、あの人とは、
母と子としては出会えないんでしょう。
でも、私の命がこの世に続くかぎりは
あの人の親である状態は終わりません……。
子に死なれた親であることから脱することは叶いません。
厳しいけれど、仕方がありません。






  

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